温泉のにおいの正体
温泉街に到着したとたん、温泉独特の匂いがして「ああ、温泉地に来たぞ!」という気分になります。私にとっては、何にも勝る歓迎のメッセージのような気がします。
雲仙温泉や草津温泉などのような火山地帯の温泉街に充満する、いわゆる"温泉のにおい"は、一般的に「硫黄の臭い」とか「卵の腐ったような臭い」と表現されることが多いようですが、実際は火山ガスの中に含まれている「硫化水素のにおい」です。
地獄と呼ばれるような噴気地帯から火山ガス自体が温泉街に漂っているためににおいがする場合と、温泉の中に溶け込んだ硫化水素からにおいを発する場合があります。「硫黄の臭い」と言われることがありますが、純粋な固体の硫黄は実際にはにおいはなく無臭です。
したがって、このようないわゆる"温泉のにおい"を表現する際には、「硫化水素臭」と書きます。
硫黄泉でなくても、単純温泉などでかすかに硫化水素臭がすることがあります。硫化水素がほんのわずかに含まれているだけで匂いがつきます。全国には、鉱泉宿といわれる少量の冷たい鉱泉が湧き出すような一軒宿がたくさんありますが、普通の湧き水とは違って、かすかに硫化水素臭がすることで発見された所が多いと思われます。
福島県の高湯温泉に「玉子湯」という名前の有名な老舗旅館があります。なまえの由来は、温泉の匂いがゆで卵の匂いに似ていたことによるそうです。
そうなんです!
温泉の匂い(硫化水素臭)は、まさに「ゆで卵のにおい」なのです。
卵の白身はタンパク質からできています。そのタンパク質を構成するアミノ酸には、メチオニンやシスチンといった硫黄の原子を含んだ栄養素が含まれています。すなわち、卵にはもともと硫黄原子が含まれているのです。卵が加熱されてゆで卵になる際に、白身にわずかに含まれていた硫黄原子が反応して、極わずかな硫化水素が発生します。「ゆで卵のにおい」は、まさに温泉の硫化水素臭そのものなのです。
提唱 硫化水素臭を「腐卵臭」ではなく「ゆでたまご臭」と言おう!
硫化水素臭のたとえの言葉として「腐卵臭」という言葉が使われます。教科書や実験の解説書などでも使われています。一般的に「たとえ」て言うものは誰でも知っているものでないといけません。実際に「腐卵臭」を嗅いだことのある人はそんなにいないと思います。私は嗅いだことがありますが、硫化水素臭どころかひどい臭いでした。硫化水素臭は腐卵ではなく、まさに「ゆでたまご」の匂いそのものです。ここちよい匂いなのです。これからは、硫化水素臭を「腐卵臭」とは言わずに、「ゆでたまご臭」と言う方がよいということを強く提唱したいと思います。
「温泉たまご」は「温泉のにおい」がしない
ちなみに、外側の白身が十分に固まっていないいわゆる「温泉たまご」は、70℃程度で茹でられるため、十分に加熱されなく、白身に含まれる硫黄原子が反応を起こしにくく、硫化水素が発生しません。温泉たまごは温泉の匂いがしないのはそのためです。「ゆでたまご」は温泉のにおいがして、「温泉たまご」は温泉の匂いがしないという、何とも奇妙な話です。
「ゆでたまご」の黄身の周りが黒くなる訳
よくゆでられたゆで卵を食べる際、ゆで卵の黄身の外側が黒ずんでいることがあります。これは、熱を加えることによって「白身から発生した硫化水素」と「黄身に含まれている鉄分」とが反応して接触部分である黄身の表面に「黒色の硫化鉄」が微量にできるためです。このような、硫化水素と鉄が反応して黒い硫化鉄ができる反応を硫化黒変といいます。
玉子焼きが黒ずむのを防ぐには
黄身と白身をよく混ぜて玉子焼きを作るとき、よく焼くと「玉子焼きが黒ずむ」ことがあります。これも硫化黒変によるものです。硫化水素と鉄が反応して黒い硫化鉄ができる硫化黒変は、まわりの環境がアルカリ性であるほど反応が進みます。したがって、まわりの環境をより酸性にすれば、硫化黒変の反応は進みにくく、黒くなりません。台所にある酸性の物といえば、「酢」や「マヨネーズ」です。卵を焼く時に、卵の中にマヨネーズや酢などを少し加えることによって、黒くならずにきれいな色の玉子焼きができます。
蛇足 漢字で書く時の「匂い」と「臭い」の違い
漢字で書く時にどう使い分けたらよいのか、調べてみました。「匂い」と「臭い」の違いは刺激が「不快か」「心地いいか」にあり、不快であれば「臭い」を、心地よければ「匂い」を使うということが書いてありました。上の文章中でもそのように使い分けてありますが、中立を保つときには「におい」とひらがな表記をしました。私にとって、温泉の「匂い」、硫化水素の「匂い」であり、塩素の「臭い」、浴室に充満するシャンプーの「臭い」です。